隅田川編②両国橋・千住大橋コース

 

 このコースは両国橋から右岸堤防上を行く。桜橋から白髭橋の間のみ左岸に渡る。神田川を越え、スカイツリーを対岸に見ながら蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋などの有名な橋を過ぎ、千住大橋までの11.3kmである。ルートを図-3.3に示す。2.5万分の1地形図は東京首部である。

図-3.3両国橋・千住大橋コースルート
図-3.3両国橋・千住大橋コースルート

  JR総武線両国駅から両国橋(写真-3.13)を右岸に渡る。

  市街地を通って神田川柳橋(写真-3.14)を過ぎると、隅田川テラス沿いの防潮堤の壁を利用して「安藤広重名所江戸百景」が描かれている。これもじっくり鑑賞すると時間を要する。なお対岸にも「隅田川テラスギャラリー」として、浮世絵の両国橋や相撲絵が見られる。

  蔵前橋(写真-3.15)は、 橋長が173.2m 3径間2ヒンジアーチ橋で、3連のようだが墨田区側の道路に1連あり、4連アーチである。徳川幕府の米蔵が近くにあったことで命名された。

写真-3.13両国橋
写真-3.13両国橋
写真-3.14神田川柳橋
写真-3.14神田川柳橋
写真-3.15蔵前橋
写真-3.15蔵前橋



蔵前橋を過ぎると浮世絵が葛飾北斎に変わる。

  厩橋は、明治18(1865)の洪水で上流の千住大橋と吾妻橋は流失したが、この厩橋は水防夫の活躍で助けられたと言われる。3連アーチ下路式の橋梁である。

  駒形橋は橋長149.6m のアーチ橋で浅草寺の駒形堂から命名された。

  吾妻橋(写真-3.16)は橋長150m のソリッドリブタイドアーチ橋で1774年に架設され、江戸時代は大川端と呼ばれた。落語の世界では三遊亭円朝の「文七元結ブンシチコットイ」をはじめ身投げの橋として出てくる。この橋から下流の隅田川を大川とも呼ぶ。

  言問橋は、在原業平の「名にしおはばいざ言問はん都鳥我が思ふ人はありやなしやと」から命名されたと言われる。私が見ると何の変哲も無いデザインであるが、隅田公園からの景観を考慮したデザインとのことである。言問橋と上流の桜橋の間を第一会場、厩橋と駒形橋の間を第二会場として毎年花火大会が行われる。 隅田川の花火は1733年八代将軍徳川吉宗が前年流行した悪病の退散祈願と犠牲者の慰霊のための水神祭を催したのが始まりとされる。花火は柳橋の料亭組合などが桟敷を設け、舟を並べて見物できるようにしてあげていた。戦争で中断されていたものが、昭和23(1948)再開されたが、その後再び中断し、美濃部亮吉知事のもとで川の浄化と下水道整備に取り組み、昭和52(1977)に第1回隅田川花火大会が開催されていまに続いている。

  桜橋は橋長169.5mの歩行者専用橋で、上から見るとX字形をしており、3径間連続X形曲線箱桁橋との説明がある。橋上からは東京スカイツリーの全貌がほぼ見られる。

  白鬚橋は橋長168.8mのゲルバー式 アーチ橋で、関東大震災後の昭和6(1931)完成した。1180年伊豆で源頼朝が挙兵し下総から武蔵へと入ろうとした時、ここに浮橋(船橋)をつくった場所で、右岸は橋場という地名であるが、左岸に平安時代以来の古社の白髭神社(奥州街道沿い)がありこれが命名の由来であろう。

  白鬚橋から進むとスーパー堤防の表示が多くなる。支川の瑞光橋を渡るとスーパー堤防上の汐入公園である。堤防内をくぐる瑞光トンネルや汐入インプレスタワーがある。

  水神大橋を過ぎると隅田川旧防潮堤碑があり、悪名高かったカミソリ堤防がモニュメント(写真-3.17)となっている。親水護岸の思想で、隅田川ではこの種の堤防はほとんど消滅した。隅田川は大きく蛇行している。

 千住汐入大橋を過ぎしばらく行くと遊歩道は消滅し市街地に入る。東京メトロ日比谷線とJR常磐線の橋梁をくぐると千住大橋(写真-3.18)となる。前述した1657年の明暦の大火の時にはまだこの橋しか無かった。現在の千住大橋は国道4(日光街道)が通る。旧橋と新橋の二橋で構成される。昭和2(1927)に竣工した旧橋は鋼タイドアーチ橋で橋長91.6m、幅員24.2mであり、新橋は橋長502.5mで南千住交差点のオーバーパス陸橋を含んでいる。左岸たもとの橋下に「千住大橋際歴史資料空間」の展示がある。将軍の鷹狩りの「千住大橋上がり場」などの説明がある。

 

写真-3.16吾妻橋
写真-3.16吾妻橋
写真-3.17カミソリ堤防跡
写真-3.17カミソリ堤防跡
写真-3.18千住大橋
写真-3.18千住大橋

 ここからは京成電鉄本線・千住大橋駅が近い。