多摩川編①多摩川下流コース

 東京モノレール・天空橋駅を出て左に行くと赤い鳥居が見え、多摩川左岸に出る。道路は羽田空港への進入路で交通量が多く横断歩道がないので注意を要する。ここから上流に向かい大師橋で右岸に渡って二子橋までの約17.1kmのコースで、そのルートを図-4.2に示す。2.5万分の1地形図は東京国際空港・川崎・東京西南部である。

図-4.2多摩川下流コースルート図
図-4.2多摩川下流コースルート図

 左岸の河口は羽田空港で堤防際は国際線ターミナルまでしか入れないと思われる。羽田空港D滑走路は川側の約1/3が、多摩川の流れを妨げないように桟橋構造(写真-4.1)になっている。耐海水性ステンレスの桟橋の柱は直径1.6m、水面からの高さ約12m、総本数1165本とのことである。

上述の赤い鳥居は高さ6mの平和大鳥居(写真-4.2)で、元々空港敷地内にあった穴守稲荷神社のものである。この神社は、対岸にある川崎大師とセットで参拝する人で賑わったという。戦後のGHQの接収で退去させられ、鳥居だけが空港敷地内に残っていたものを平成11(1999)この場所に移設した。

  海老取川・弁天橋を渡ってからの多摩川堤防上の道は、「武蔵野の路・六郷コース」と称され、快適な遊歩道である。

  海底横過トンネルの標識がJR東日本によって立てられている。右岸にも同じ看板がある。JR貨物線が川底をくぐっている場所で、首都高湾岸線のトンネルもあるはずである

  羽田の渡しは古くから存在し、家康が鷹狩りの帰途に単騎で立ち寄り、家康を知らない住民が鐙をとったという伝説がある。江戸時代末には上述の穴守稲荷と対岸の川崎大師の参詣の人々で賑わっていたし、明治後期から昭和初期にかけては川遊びの船が往来していたとのことである。渡しは大師橋の開通とともに昭和14(1939)廃止された。羽田という地名の由来は、海老取川を境として二つの島があり海側から見ると鳥の両翼に似ていることとこの土地が肥沃な田地であったこととの説があるらしい。

  多摩川最下流の橋は首都高1号線の橋梁で、首都高が河川に対して斜めになっており大師橋と南岸(右岸)で重なり北岸(左岸)170m離れたV字をなしている。大師橋(写真-4.3)は斜張橋で上下線2本の橋が平成9(1997)完成した。

 


写真-4.1羽田空港滑走路(右岸より)
写真-4.1羽田空港滑走路(右岸より)
写真-4.2平和大鳥居
写真-4.2平和大鳥居
写真-4.3大師橋
写真-4.3大師橋

大師橋を渡り、上流に向かうと「新日本製鉄水門」のプレートを貼った水門跡(写真-4.4)がある。昭和46(1971)完成ということである。

  この辺りで「シジミ・アサリ潮干狩注意」の看板を見かけた。多摩川のシジミは水質が悪化した昭和35年(1960)代に姿を消し、その後の水質改善により平成17(2005)頃復活が確認されたと言われ、川崎漁協と大田区の漁協が平成25(2013)東京都から漁業権を認められた。ヤマトシジミという種類で8月は産卵期のため禁漁期、一般の潮干狩は重量2kgまでなどと呼びかけているが、違反者が絶えず資源枯渇が懸念されているらしい。同じく違法や迷惑行為として、河川敷での不法耕作菜園やBBQでの騒音苦情が新聞記事となっている。

  新日本製鉄水門跡から次の川崎河港水門までの約1.3km間は味の素の広大な工場である。

  川崎河港水門(写真-4.5)は現在の川崎区を対角線状に横切る幅3340mの大運河計画の一環として、昭和3(1928)完成したが、昭和18(1943)に廃止されまぼろしの運河になった。現在は千葉方面からの砂利荷揚げの施設は残っているらしい。水門の上には当時の川崎の名産物であったという葡萄・梨・桃をあしらった装飾がある。水門は文化庁指定の登録有形文化財であり、経済産業省の近代化産業遺産でもある。

 六郷橋(写真-4.6)の右岸たもとに「史跡東海道川崎宿 六郷の渡し」「明治天皇六郷渡御碑」「長十郎梨のふるさと」などの説明がある。六郷橋は第一京浜国道の橋で長さは443.7mあり、箱根駅伝で有名である。東海道での多摩川渡河のため、家康は1600年に六郷大橋を架けさせ、隅田川の千住大橋・両国橋とともに江戸三大橋とされた。その後水害による流失が繰り返され平成9(1997)現在の形となった。

 

写真-4.4新日本製鉄水門跡
写真-4.4新日本製鉄水門跡
湊
写真-4.5川崎河港水門
写真-4.6六郷橋
写真-4.6六郷橋





 京浜急行と東海道線の橋梁をくぐると堤防の法面に良質の煉瓦で造った石段(写真-4.7)がある。観客席の跡のように見えるが、何が対象だったのかわからない。前面には広場はなくすぐ川の流れとなっているので、水上で行う催しが目的であったかと推定される。

  川崎競馬の練習場(写真-4.8)は広大な面積で、整備が行き届いている。河川敷に競馬施設があるのは首都圏の河川ではここだけである。

  多摩専用橋というのは東京電力とNTTの共同使用の送電専用橋で、長さ521.4mのランガー桁3連橋である。

  御幸公園という名前から、御幸村というのはこの辺りではないかと推定した。大正3年この村の住民約400名が、度重なる水害に悩ませられている状況に抗議し、神奈川県庁に築堤を陳情したと言うことで、これをアミガサ事件という。みんなが編笠をかぶっていたらしく、この時代には珍しい抗議行動だったようである。

  ガス橋というのは東京ガスが鶴見製造所からガスを東京に供給するために架けられたのに由来するらしい。

  この辺りは東海道新幹線をはじめ鉄道橋が多く、鉄橋銀座と呼ばれている。

 丸子橋(写真-4.9)を過ぎるとすぐ東急東横線橋梁となる。

 

写真-4.7煉瓦造観客席跡
写真-4.7煉瓦造観客席跡
写真-4.8川崎競馬練習場
写真-4.8川崎競馬練習場
写真-4.9丸子橋
写真-4.9丸子橋

丸子橋の直上流の右岸斜面に階段が連なって見える。昭和11(1936)完成した日本で初めての常設サーキット場「多摩川スピードウェイ」の観客席の跡(写真-4.10)である。自動車、バイクや自転車の競走で11200m、観客3万人収容の東洋一の施設であったらしい。コンクリート製で屋根の柱跡と思われる穴が規則的に並んで見える。前述の良質レンガ製の石段と比べると粗雑である。この観客席がいまはサイクリング、ランニング、散策者の格好の休憩場所で、サーキット場は野球場となっている。

  調布取水堰(写真-4.11)は右岸からは確認できないが、左岸からはフェンス越しではあるが直近で見ることができる。河川敷の砂利採取が原因と思われる河床低下により海水が遡上して水道水に塩水が混入したことなどから、防潮兼取水用として調布堰ができたようである。明治11(1936)に作られ昭和45(1970)まで利用されていたが、飲用した人からカシンベック病の疑いが出て上水は停止となり工業用取水のみとなった。

 東急田園都市線の二子玉川駅(写真-4.12)は対岸にあり、駅の半分が川に突き出た橋上駅である。

 二子橋をコースの終点とし、東急東横線・二子新地駅に行く

 

写真-4.10サーキット場観客席跡
写真-4.10サーキット場観客席跡
写真-4.11左岸からの調布堰
写真-4.11左岸からの調布堰
写真-4.12二子玉川駅
写真-4.12二子玉川駅