江戸川編①旧江戸川・柴又コース

 

 JR京葉線・舞浜駅から東京ディズニーランドの横を通って線路沿いに旧江戸川左岸に出る。このコースは旧江戸川左岸から行徳で分流する江戸川の左岸に行徳橋で渡り、矢切の渡しで右岸に戻って柴又に至る約21kmである。コースのルートを図-5.2に示す。2.5万分の1地形図は浦安・船橋・松戸である。

図-5.2旧江戸川・柴又コースルート図
図-5.2旧江戸川・柴又コースルート図

 

 旧江戸川最下流の橋はJR京葉線(写真-5.1)の橋梁で、これに近接平行して京葉道路と首都高湾岸線の橋梁がある。

  堤防上はサイクリングロードである。

  見明川で一般道路に少し迂回し、堤防沿いは未整備の遊歩道となる。

  堀江ドックまでの間に鋼製横引式陸閘(写真-5.2)4箇所ある。陸閘は他の河川では荒川の上流で1箇所見ただけで旧江戸川特有の構造物と言える。堀江ドック(写真-5.3)は。漁船の船溜まりである

 

写真-5.1JR京葉線
写真-5.1JR京葉線
写真-5.2鋼製横引式陸閘
写真-5.2鋼製横引式陸閘
写真-5.3堀江ドック
写真-5.3堀江ドック

 

旧江戸川特有の構造物としてもうひとつ高潮堤防を乗り越える太径の排水管(写真-5.4)がある。樋管形式で堤防の下に潜らせるよりこれの方が低コストなのかもしれない。

  東京メトロ東西線橋梁(写真-5.5)は他の鉄道橋梁は鋼製トラスばかりなのにこれは鋼アーチ下路式である。

  境川西正水門を過ぎると船宿が増え、水面には多くの屋形船が繋がれている。吉野屋という船宿には山本周五郎著「青べか物語」の船宿千本と書かれている。

  浦安橋の手前に渡し場跡の説明がある。江戸末~明治初には堀江の渡しと呼ばれていたが、その後浦安の渡しとなり伝馬船で2030分、昭和初期の料金は大人2銭・子供1銭・自転車3銭・小車4銭であったとのことである。昭和15(1940)浦安橋の架橋で廃止された。浦安橋は妙見島という中洲の南端に架けられている。妙見島は東京都23区で人工島でない唯一の自然島であるらしい。

  当代島水門跡(写真-5.6)をはじめ旧江戸川には使われなくなった水門が多くある。上流に向かって新井水門・欠真間三号水門・押切水門・本行徳水門・河原水門などである。他の河川との違いを感じる。

 

写真-5.4太径排水管
写真-5.4太径排水管
図-5.5東京メトロ東西線
図-5.5東京メトロ東西線
図-5.6当代島水門跡
図-5.6当代島水門跡

 

 ねね塚の旧跡とは、1644年城主の家来だった久三郎とイネの男女二人の駆け落ちに、法外な値段で今井の渡しに加担した船頭とその妻を合わせた5名が、お仕置きの上葬られた所だということである。

  行徳河岸(祭礼河岸)の旧跡とは、以前別の場所にあった河岸を元禄3(1690)この付近に移設したもので、銚子などからの魚・西瓜・瓜・薪・塩・米などが馬で運ばれてきてここで積み出されたということである。昭和の初め(1926)頃でも、荷足船が2030艘ほどが入る広さで、葛西船により下肥が運ばれてきて小型の肥やし舟に移して水田に運ばれていたという。

  常夜燈は成田山新勝寺詣りの道中安全を願って講の連中が寄進したものとのことである。公園となっていて、売店やトイレがある。

  常夜燈公園を過ぎてしばらく行くと、川から離れそうになるが道なりに直進すれば行徳橋となる。少し寄り道をして、江戸川水門を見学することにする。江戸川水門(写真-5.7)は俗に篠崎水門、正式には江戸川水門または江戸川閘門と言い、昭和11(1936)に着工し昭和18(1943)に完成した。水門は幅員16m、高さ5.5m5連、電動開閉式引揚鉄扉で、江戸川閘門(写真-5.8)は幅員11m、高さ5.5mの手動引揚鉄扉とのことである。付近は篠崎水門の桜として親しまれているらしい。

  行徳橋に戻る。行徳橋の下には行徳可動堰(写真-5.9)がある。江戸川河口より3.2kmの位置にあり、昭和25(1950)から昭和32(1957)にかけて施工された。利根川改修計画が検討されたとき、それと関連して江戸川の流量を増やす川幅の拡幅工事を行おうとしたが、行徳付近から河口までの間(旧江戸川)は蛇行している上に都市化がすでに進んでいて、拡幅は不可能とされた。そこで新たに行徳付近から東京湾に向けて直線状の放水路(江戸川放水路)を掘削することになり、大正8(1919)に竣工した。これと同時に放水路入口に行徳堰が設けられた。しかしこれは固定式の堰であったため洪水時の流下量増大に対処することができず、昭和22(1947)のキャサリン台風での教訓から、昭和25(1950)に可動堰とされたのが現在の堰である。しかし老朽化で改修計画中とのことであるが、環境問題(絶滅危惧種ヒヌマトンボや干潟など)が論点となっている。この堰の目的は海水遡上防止・渇水時水位保持・氾濫防止である。この行徳可動堰の管理橋が、県道・行徳橋との併用橋梁となっている。行徳可動堰によって平常時は河川水が流れ出ず、下流側は海の入り江と同じ状態である。

 

図-5.7江戸川水門
図-5.7江戸川水門
図-5.8江戸川閘門
図-5.8江戸川閘門
図-5.9行徳可動堰
図-5.9行徳可動堰

 

 左岸サイクリングロードを進み、京葉道路江戸川大橋を過ぎると北越紀州製紙工場の排水施設がある。余談であるがこの製紙工場は公害問題の歴史の中で有名で、昭和33(1958)本州製紙(現王子製紙)の工場から排出した黒い水(セミケミカルパルプ廃水)事件で江戸川漁業被害を起こし、日本初の公害規制法である水質汚濁防止法が制定されるきっかけとなった。この事件により浦安は昭和46(1971)漁業権の全面放棄に至っている。

 市川緊急用船着場周辺では毎年5月後半に「江戸川・水フェスタin いちかわ」と称する川遊びイベントが催される。

 市川南地区スーパー堤防(写真-5.10)は、国交省モデルと言えるような幅広い盛土とその上に建つ高層マンションである。海から12.712.9kmの位置にあり延長200m、幅180m、面積3haで、市川市の江戸川さくら並木整備事業の対象となっている。スーパー堤防は幅を高さの30倍に広げた堤防であるが、2013年度末で7100億円が投じられていたにもかかわらず整備率は10(12km)である。国交省は江戸川の右岸19km、左岸14kmに計画しているが住民の抵抗が大きいらしい。しかし江戸川は他の河川よりもスーパー堤防の数・比率が高いように感じる。

 市川関所跡の説明看板には次のような内容が記されている。市川の渡しで結ばれる対岸の小岩関所と一対の関所で、「出女と入鉄砲」と言われる江戸に入る武器と江戸から出て行く女性に特に厳しい関所であったらしい。

 対岸の話であるが京成本線付近の河川敷にある小岩菖蒲園には「ムジナモ発見地」の記念碑があるらしい。明治33(1890)に牧野富太郎博士が発見した希少な食虫植物で、ムジナ(タヌキ)の尾に見立てて名付けられたとのことである。長さ625cm、太さ2cmほどで、国の天然記念物になったが洪水でムジナモが流失してしまい、指定が解除されている。

 京成本線は鉄橋がなかった大正初期には東京側に市川駅を置き、伝馬船をチャーターして乗客を運んでいたとのことである。大正3(1914)にできた最初の鉄橋は226mであったが工事が難航し、旧日本軍の架橋訓練を兼ねてようやく完成したらしい。いまの鉄橋は昭和55(1980)に架け替えられた。

 右手の山頂に和洋女子大が見える辺りで、堤防が消滅する。木陰の遊歩道となり、短い間だがそれまでの全く日陰無しの状態から一息つく感がある。里見公園で再び堤防上となる。

 旧坂川跡(写真-5.11)の碑には次のように記されている。1836年に掘削された坂川最下流部の自然豊かな旧跡が、平成13(2001)の矢切築堤に際し消える運命だったのが設計変更で保全された、との内容である。

 矢切の渡し(写真-5.12)は松戸市矢切と東京都柴又を往復する渡しで、始まりは江戸時代初期に農民が対岸の耕作のために使った農民渡船らしい。現在も運行している都内唯一の渡しで、夏季毎日・冬季土日祝の9:3016:00に動き料金\200である。2隻で相互運航している。1836年に掘削された坂川最下流部の自然豊かな旧跡が 提案コースも、矢切の渡しに乗って右岸に渡る。

 

図-5.10市川南地区スーパー堤防
図-5.10市川南地区スーパー堤防
図-5.11旧坂川跡
図-5.11旧坂川跡
図-5.12矢切の渡し
図-5.12矢切の渡し

 

 渡しを降りると、河川敷には細川たかしのヒット曲「矢切の渡し」歌碑などがあり、堤防はスーパー堤防地区で柴又公園となっている。近くに寅さん記念館や庭園が素晴らしい山本亭、柴又帝釈天などがある。

  ここから京成金町線・柴又駅はすぐである