隅田川編①勝鬨橋・両国橋コース

 

このコースは、勝鬨橋から両国橋までを左岸・右岸ジグザグで上流に向かうものである。実歩行距離は約9.8kmで、実際の河川の長さよりかなり長い。コースのルートを、図-3.2に示す。2.5万分の1地形図は東京首部である。

 

図-3.2勝鬨橋・両国橋コースルート
図-3.2勝鬨橋・両国橋コースルート

 

 都営地下鉄大江戸線・勝どき駅で降りて、勝鬨橋に向かう。以前はこの勝鬨橋が隅田川最下流の橋であったが、その下流500mの位置に長さ120m、幅45mの築地大橋が平成26(2014)58日新設された。その際重さ2,600tの橋桁が大型クレーン船で持ち上げられた。2020東京五輪の主要道路となる環状2号線である。

  この築地大橋(写真-3.1)を遠望しながら、勝鬨橋をスタートする。 勝鬨橋(写真-3.2)は橋長246mで日本初の中央径間鋼製跳開橋と言われる。船の航行可能なように中央部の約50mの部分が「ハ」の字に70度まで上がる構造で、日露戦争旅順陥落の勝どきから命名された。昭和15(1940)竣工し、戦前は15回開きその度に約20分間晴海通りは通行止めになったという。ただし昭和45(1970)以来あかずの橋で、昭和64(1989)に「勝鬨橋をあげる会」が結成されたというが、実現はしていない。名前の由来は1905年日露戦争旅順陥落を記念して築地と月島を結ぶ渡船場を作り「勝鬨の渡し」と名付けたことによる。

  勝鬨橋右岸たもとから隅田川テラス(写真-3.3)に出る。この隅田川テラスは左右両岸を上流白鬚橋付近まで整備された遊歩道である。様々な絵画や俳句の展示があるほか、親水護岸やドッグランなどがあり金がかかった遊歩道という印象である。

 

写真-3.1築地大橋
写真-3.1築地大橋
写真-3.2勝鬨橋
写真-3.2勝鬨橋
写真-3.3隅田川テラス
写真-3.3隅田川テラス

  超高層の聖路加病院を過ぎ、佃大橋を右岸に渡る。右岸のこの辺りは月島と言われる界隈で佃煮屋の看板が目に付き、下町の風情が感じられて少し寄り道をしてみたい所である。

  川沿いをそのまま豊洲運河(隅田川派川)に沿って石川島公園の親水護岸(写真-3.4)脇を通って、相生橋に至る。相生橋(写真-3.5)は大正15(1926)に竣工した。関東大震災後の復興局橋梁第1号で、長さ187m、幅22mである。相生橋を渡り、大横川の越中島連絡橋を通って永代橋となる。 永代橋(写真-3.6)は、徳川五代将軍綱吉は深川が賑わうようにと大橋や永代橋をかけ、富岡八幡宮での勧進相撲を許可した。橋命名の由来は永大島という地名のほか将軍綱吉の50歳祈念説もある。永代橋では18078月の富岡八幡宮の祭礼の群衆の重みで落橋し、1500人もの死傷者が出た。現在の永代橋は大正15(1926)に竣工した鋼鉄タイドアーチ橋で橋長185.2m、幅員22m、アーチの高さ40mの下路橋である。

写真-3.4石川島公園親水護岸
写真-3.4石川島公園親水護岸
写真-3.5相生橋
写真-3.5相生橋
写真-3.6永代橋
写真-3.6永代橋

  上流にある千住大橋より下流の左岸一帯は本所・深川と呼ばれる地域である。江戸は火事が非常に多発し、とくに1657年の「明暦の大火」は江戸城の天守閣まで焼失し、犠牲者10.7万人であったとされる。当時は隅田川には千住大橋しかなく、徳川幕府は両国橋(1659)や火除け地として上野広小路など諸対策を実施した。江戸市中での密集を避けるため武家屋敷や木場の用地確保のために開発されたのが本所・深川地域である。ところがこの一帯は湿地帯で、その排水のため縦横の堀川が設置された。北十間川、小名木川、大横川などで「割下水」と言われる。下水とは言っても家庭糞尿は回収されており、不潔ではなかったようである。このように開発された結果、もともと下総国であったのが、江戸市街地に組み入れられた。

 永代橋を右岸に渡り少しの間市街地となるが上流に向かう。日本橋川・豊海橋(写真-3.7)を過ぎ、隅田川テラスを進むと清洲橋となる。この付近の隅田川テラスでは安藤広重の絵が鑑賞できる。

 清洲橋(写真-3.8)は、橋長186.2mの自碇式鋼鉄製吊橋(写真-3.9)である。色・形とも隅田川橋梁中でトップクラスと言える。ドイツ・ケルンがモデルと言われ、昭和3(1928)完成した。深川清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることから命名された。土木学会は永代橋とセットで選奨土木遺産としている。

紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられ、岩崎彌太郎が開園した「清澄庭園」が近い。

写真-3.7日本橋川豊海橋
写真-3.7日本橋川豊海橋
写真-3.8清洲橋
写真-3.8清洲橋
写真-3.9自碇式鋼鉄製吊橋
写真-3.9自碇式鋼鉄製吊橋


  清洲橋で再度左岸に行き、少しの間市街地となるが小名木川の萬年橋(橋のたもとに「古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉」)となる。川船番所跡とケルンの眺めの説明がある。ケルンの眺めとはこれがモデルとなった清洲橋の眺めがここからが素晴らしいとのことである。隅田川テラスに入ると芭蕉像(写真-3.10)が見え、芭蕉翁史跡展望庭園がある。テラス上には大川端芭蕉句選碑が並べられ、近くに「江東区芭蕉記念館」があって、興味ある人は時間を費やすであろう。

 新大橋(写真-3.11)は、名前とは逆に最も古い橋で、昭和53(1978)に橋長170m の斜張橋に生まれ変わった。六大橋とは相生橋(派川)・永代橋・清州橋・蔵前橋・駒形橋・言問橋を言い、十大橋梁となるとこれらに新大橋・両国橋・厩橋・吾妻橋を加える。レガッタ(競漕)は明治38(1905)以来の歴史があったが、首都高速道路の建設工事や水質汚濁で昭和36(1961)に中止となった。その後開催地が戸田、相模湖、荒川などを転々とし、昭和53(1978)に隅田川に戻った。多くのレースがあり、早慶の対校エイトがメインで年によって区間が変わるが平成25(2013)は新大橋・桜橋間の3750mで競われた。新大橋を右岸に渡る。

 首都高7号線橋梁をくぐると両国橋である。

 両国橋は、橋長164.5m 3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋である。言問橋、大阪の天満橋とともにスパンの長い「三大ゲルバー桁橋」とされる。昭和7(1932)竣工した。左岸一帯(現在の墨田区・江東区)の本所深川は下総国で武蔵国江戸ではなかったが、1661年の両国橋により江戸市域となった。この旧名の両国を結ぶ橋であることから命名された。両国橋で人々が納涼を楽しむ様子の浮世絵が隅田川テラスに掲げられている(写真3.12)1657年の明暦の大火後の教訓として橋の両岸に火除地となる広小路などが設けられたが、いまの橋はそれより20m上流となったため橋畔の広小路は消滅している。明治30(1897)8月に花火見物の観衆で落橋し、多くの犠牲者を出したため、明治37(1904)に木製から鉄製のトラス橋へと架け替えられた。「国技館」や「江戸東京博物館」が近い。

 このコースは両国橋を終点とし、左岸ならJR総武線両国駅に、右岸なら同線浅草橋駅のどちらも近い。余裕があれば両国駅付近を散策するのも面白い。

 

写真-3.10芭蕉像
写真-3.10芭蕉像
写真-3.11新大橋
写真-3.11新大橋
写真-3.12両国橋納涼
写真-3.12両国橋納涼