東武東上線橋梁から左岸一般道を玉淀、玉淀ダム、野上下郷石塔婆、金石水管橋、長瀞石長瀞畳を経て埼玉県立自然の博物館までの19kmのコースで、ルートを図-1.5に示す。2.5万分の1地形図は寄居・鬼石である。このコースはすでに堤防は消滅し、一般道路の歩きとなる。
東武東上線・玉淀駅から正喜橋までの川沿いの小道に、玉淀水天宮と宮沢賢治の歌碑(写真-1.22)がある。歌のひとつは「つくづくと粋なもようと博多帯 荒川きしの片岩のいろ」というもので、福岡出身の地質屋としては興味を覚えざるを得ない。この歌は後述の埼玉県立自然の博物館近くでも紹介されている。
正喜橋のすぐ手前に雀宮公園(七代目松本幸四郎別邸跡地)がある。
秩父鉄道と東武東上線の寄居駅から正喜橋を目指してここに来てもよい。
余談となるが正喜橋を対岸の右岸に渡るとすぐそばに鉢形城跡がある。北条氏が越後・上杉、甲斐・武田の抑えを目的とした城で、1590年豊臣秀吉によって攻略されたのだそうである。
正喜橋の左岸たもとの小道に進むと名勝玉淀の碑があり、荒川の河原に下りることができる。この河原の風景の良さが名勝たる所以であろう。玉淀とは「玉のように美しい水の淀み」に由来するらしい。河原に舟山車が出る「寄居玉淀水天宮祭」は毎年8月に開かれる。
折原橋までのこの川沿いの小道は木立が多く休憩所も数ヶ所あり、歩いていて気持ちがいい。途中に「サトザクラ苔清水」の説明があり「花は一重咲き、中心が白で先端は淡紅紫色、弁先には細かいきれこみ、バラ科」だそうである。
宗像神社を過ぎてJR八高線の踏切を渡る。
交通量の多い国道140号線に出て皆野寄居有料道路を見ながら、国道と分かれて一般道に左折すると折原橋となる。これの直近に皆野寄居有料道路橋梁(写真-1.23)がやや高い位置に白と下赤アーチの姿を見せる。
玉淀ダム(写真-1.24)は埼玉県営の多目的ダムで、発電は東京発電㈱である。ダムの諸元は、高さ32m、堤頂長110m、堤体積36,800㎥、総貯水量350万㎥ということである。上流の二瀬ダム完成の翌年昭和36年(1961)着工し、昭和39年(1964)完成した。平成10年(2008)撤去促進期成同盟が結成され、熊本県の荒瀬ダム(撤去決定)とともにその動向が注目された。その後この撤去運動がどうなったかは知らない。
玉淀ダムの脇を通り、階段を上がると一般道がある。進んで国道140号・彩甲斐街道に出るがここからしばらくは歩道が無い区間もあり、注意を要する。
寄居橋(長さ128m)を過ぎると長瀞峡谷(写真-1.25)である。
秩父鉄道との立体交差を過ぎると歩道が山腹を上がって遊歩道(写真-1.26)となる。秩父往環と呼ばれる古道であろう。道脇に大きなわらじがぶら下げてある。司馬遼太郎の「街道を往く」にあった話では、この辺りにはこんな大きなわらじを履く巨人がいるから悪いことはできないぞ、というまじないらしい。
野上下郷石塔婆(写真-1.27)は高さ5.37m、厚さ13cm日本一の石塔婆で、付近の山麓に緑泥石片岩を石材として切り出したと伝えられる跡があるらしい。流域の河成段丘面上には結晶片岩の扁平さを利用した石室も残っているということである。
樋口駅前の長瀞第二小学校の校庭の裏に寛保洪水位磨崖標(写真-1.28)があるとのことで見物を試みたが、案内がなく見つけられなかった。川幅が狭くなる浸食岩壁に水の字が刻んであるらしく、1742年の集中豪雨により水位が河床から17m上昇したことを示すものらしい。
高砂橋から長瀞駅までの両側に桜並木がある。結構大きな老木も多く、熊谷桜堤に匹敵する。金石の渡し跡付近はモミジ並木で紅葉時期にはライトアップされるらしい。
長瀞の瀞とは「川底が深くて流れが緩やかな場所」の意味と言われる。高砂橋の脇には長瀞ライン下りの下船場があり、上流の親鼻橋からの60分コースと岩畳からの30分コースがある。
長瀞石畳(写真1.29)は3億~8千万年前の堆積岩を原岩とする三波川変成帯の結晶片岩の姿である。秩父帯や四万十帯が白亜紀末に地下深部に潜り込み、高圧下で変成したと言われる。水平に近い片理面と鉛直な節理とで畳が敷き詰められた形となっている。ナウマンや宮沢賢治も訪れたとのことで、「日本ジオパーク」に認定された。
みやげ屋街から川に平行な小径に入り埼玉県立自然の博物館に行く。博物館正面から川に下りると、微褶曲が虎の毛皮を連想させる虎岩(写真-1.30)が見られる。
埼玉県立自然の博物館は地質に関する展示が多い。
秩父鉄道・上長瀞駅は近い。