渡良瀬遊水地の北東縁から遊水地内の渡良瀬川を行く約17.3kmのコースで、ルートを図-7.2に示す。2.5万分の1地形図は古河・下野藤岡である。
東武日光線・柳生駅から三県境を見学する。三県境は、埼玉・群馬・栃木の県境でこのような境は全国に40ケ所以上あるらしいが、大半は山間部や河川内にあり平地にあるのは珍しいということである。
渡良瀬遊水地は国内最大級の遊水地で、山手線内面積の約半分にあたる3,300㏊あり、人工貯水池の谷中ヤナカ湖と三つの調節池からなる。調節池はヨシ原の湿地だが洪水時には川の水を一時引き入れ、下流の利根川流域での水害を防ぐ。周囲約30㎞で栃木・群馬・埼玉・茨城の四県にまたがり、大半は栃木県である。この遊水地の位置にはかつては栃木県谷中村があった。しかし上流の足尾銅山の鉱毒が洪水の際に流出する恐れから、これを沈澱させて無害化することを目的に明治政府が遊水地化計画を進めた。谷中村民は激しく反対したものの、明治39年(1906)強制的に廃村となった。この反対運動でのリーダーであった田中正造を称えた碑が遊水地周辺に多く見られる。また昭和22年(1947)のカスリーン台風では遊水地周辺の堤防が決壊して約千百人が死亡し、その後調節池や谷中湖の整備が進んだ。
平成24年(2012)にラムサール条約に2,861㏊が登録された。ラムサール条約とはイランの都市ラムサールにちなんだ通称で、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」ということである。2018年現在国内では52ケ所登録されているらしい。
コースはこの遊水地の東縁から第二・第三調節池内を往く。
三県境から谷中湖の堤防に上り、いったん下流に向かい、第一水門、カスリーン台風(昭和22年9月)決壊口跡碑を経て三国橋(写真-7.1)に行く。三県境は見ずに三国橋を出発点にするなら東武日光線・新古河駅が近い。
左岸に渡り渡良瀬川堤防上を上流に向かう。
古河リバーサイド倶楽部の前庭に田中正造翁遺徳之賛碑(写真-7.2)がある。田中正造(1841-1913)は衆議院議員で、日本初の公害事件となった足尾銅山鉱毒事件の反対派農民のリーダーとなり、明治天皇に直訴を試みた政治家として有名である。
またすぐ近くに古河の地名が歌い込まれている2首の万葉歌についての碑(写真-7.3)と説明看板がある。歌では古河が許我となっている。
万葉歌碑のそばに石製テーブルに刻まれた渡良瀬遊水地案内図があり、歩こうとしているコースが全て含まれる。またこの近辺から見える山並について書かれている田山花袋の「田舎教師」の一節を示している。「雪に光る日光の連山、羊の毛のやうに白く靡タナビく浅間ケ嶽の烟ケムリ、赤城は近く、榛名は遠く、足利附近の連山の複雑した襞ヒダには夕日が絵のやうに美しく光線を漲ミナギらした。」
河川敷ゴルフコースを過ぎると左折路があり、それを行くと渡良瀬川に架かる野渡橋で右岸に渡る。堤防上のサイクリングロードから左遠方に谷中湖が見える。しばらく行くと右遠方に第二水門がある。
新赤麻橋を左岸に渡る。そのたもとに第二調節池の説明看板があり、ラムサール条約やビオトープについて書かれている。
堤防上を道なりに進むと、渡良瀬川から離れて支川の巴波ウズマ川沿いとなり、第三水門を左対岸に遠望しながら、左下にV字型に折れる道がある。それを進むと巴波川・石川橋となる。対岸堤防をそれまでと逆方向に行く。
第三水門(写真-7.4)の横に展望台(写真-7.5)がある。上から第一・第三調節地のひろがりや越流堤(写真-7.6)、スカイフィールドと呼ばれる小型飛行機の滑走路などが見られる。
越流堤部は進入禁止であるため下の調節池内の道を進み、西赤麻橋を右岸に渡る。道なりに進むとT字路がある。交差点のそばに錆びて老朽化した展望台(写真-7.7)があり、ここを右折して堤防に上る。左下に藤岡渡良瀬運動公園があり、その先に藤岡大橋(写真-7.8)となる。100m上流に新開橋(写真-7.9)、さらに約100m上流に東武日光線の橋梁がある。
コースを外れるが藤岡大橋と新開橋の間の対岸の左岸に栃木市藤岡文化会館があり、その前庭に田中正造翁銅像と業績碑が建てられている。
新開橋で左折し、市街地を東武日光線・藤岡駅まで約20分である。