京成金町線・柴又駅から江戸川右岸堤防上の江戸川堤サイクリング道路を上流に向かい、葛飾橋を左岸に渡り、利根運河までの約22.7kmのコースである。コースのルートを図-5.3に示す。2.5万分の1地形図は松戸・流山・守谷である。
京成金町線・柴又駅から柴又帝釈天(写真-5.13)参道を経て江戸川右岸堤防上に立つ。江戸川堤サイクリング道路である。
新葛飾橋の手前の右岸際に、いかにもレトロな感じの取水塔が2基立っている。説明が何もないので、下流側をドーム型取水塔(写真-5.14)、上流側をトンガリ帽子型取水塔(写真-5.15)と勝手に名付けた。絵になる姿なので寅さん映画にもよく出てくる。恐らくそばにある金町浄水場の施設であろう。
葛飾橋(写真-5.16)を左岸に渡る。歩測で約400mである。
松戸緊急用船着場(写真-5.17)は地震災害発生時の物資輸送に供する施設で65m岸壁が2基ある。300t、船長50mが対象とのことで、対岸にもある。緊急用船着場は数多くあり、これを利用して各自治体で様々なイベントが催されている。
是より御料松戸宿というのは街道の通行人に土地の支配関係をしらせるため、松戸宿の出入口に建てたものの碑でここは下横町渡船場であった。
松戸水位流量観測所の説明では観測開始は大正12年で過去の最高水位は昭和22年9月16日カスリーン台風の時で6.530m、計画高水位は8.130mとのことである。
樋野口川の一理塚(写真-5.18)には常夜灯、木陰、ベンチ、トイレがある。常夜燈は江戸から大正時代にかけて舟運が栄えた時期の施設とのことである。明治時代には通運丸という外輪船が就航していて、夜になると明りが灯り河岸(船着場)の位置をしらせた。
松戸市域では〇〇川の一里塚というのがいくつかあるが、これは旧跡を示すものではなく松戸市が旧建設省との共同事業として市民に休憩所と位置確認を提供するための施設である。また非常時の水防活動拠点や道標としての役割もあるそうである。ある程度の間隔で設置されている小公園である。いい安らぎの場であった。
上葛飾橋近くの川岸には稚鮎漁の網が仕掛けてある。長さ約35m、直径1mの円筒で竹竿や鉄柱で固定し遡ってくる稚鮎が誘導されて網の突き当りまで来ると逃げられなくなる作りとのことである。上流の漁協が放流用に買い上げに来るらしい。
汚れのひどい坂川の水を江戸川下流部に迂回(バイパス)させる水路が河川敷に2.5km(既存坂川を含めると6km)設けられている。ふれあい松戸川と名付けられている。これをどう処理して江戸川に放流しているかは不明である。松戸水門(写真-5.19)は耐震補強工事中で、堰柱や床版のせん断補強をしているとのことである。
平成23年(2011)の東日本大震災での福島第一原発の放射能漏れ事故による影響を近畿大学が調査した結果が新聞報道されたが、それによると柏市方面から流入する坂川より下流で高いセシウム濃度が検出されたとのことであった。
ガス管専用橋(写真-20)は東京ガスのもので、直線型の橋梁である。水管橋の場合は一般にアーチ橋が多いがそれに比べて軽いものであることがわかる。
対岸でもそうであるがこの辺りの堤防は平成23年(2011)3月11日東日本大震災の影響と思われる損傷が見られた。前回同年5月に歩いた時には堤防上の舗装面の中心に延長方向に連続するクラックや噴砂を生じていた。明確ではないが、他の河川に比べてこの江戸川上流部堤防のダメージは大きかったという感じがした。今回平成30年(2018)5月の時点でも修復された堤体天端のクラックが再び開口しているものもあった。
矢河原ヤッカラの渡し跡は加村の渡しとも言い、昭和35年(1960)頃まで存続したらしい。幕末に流山に逃げた新撰組局長近藤勇は、新政府軍の包囲で単身出頭し、この渡しで流山を後にしたということである。対岸では前間ゼンマの渡しと呼ばれる。
羽口バクチの渡し跡は、流山に集まっていた新選組鎮圧のため政府軍が渡河した場所で近くに賭博場があったとのことである。
六兵衛の渡し跡は別名上新宿の渡しともいうが運営していた人の名で六兵衛の渡しが一般的とのことで、作業場への渡しとして昭和20年(1945)頃まで利用されていた。
利根運河(写真-5.21)との合流点に運河河口公園がある。この運河については④利根運河コースで記すが、この江戸川側が始点で、終点は利根川となる。
運河沿いに約50分歩いて東武アーバンパークライン・運河駅となる。