多摩川編④羽村堰・釜の淵公園コース
このコースは玉川上水取水口のある羽村堰の少し下流の羽村堰下橋から左岸を上流に向かい、釜の淵公園の鮎美橋で右岸に渡って、以下万年橋で左岸へ、和田橋で右岸へ、軍畑大橋で左岸に渡る約19.5kmである。コ-スのルートを図-4.5に示す。2.5万分の1地形図は青梅・武蔵御岳である。
JR青梅線・羽村駅から奥多摩街道を横切り、稲荷神社、中里介山の墓がある東谷山禅林寺、玉川上水の羽村橋を経て羽村堰下橋に出る。
羽村取水所園地には玉川兄弟の像や堰の筏通し場・牛枠などの説明、案内図などが並んでいる。筏通し場というのは上流で伐り出した青梅材を筏に組んで運搬する際、羽村堰を通過するため1721年に設置したらしい。牛枠(写真-4.28)とは水勢を弱めて堤防を守る役目の材木と蛇篭で作った構造物のことである。玉川上水取水口(写真-4.29)や土木学会推奨土木遺産の羽村堰(写真-4.30)も見学するため、少し時間を費やしたい所である。
植樹記念碑に、平成元年(1989)羽村堰上多摩川左岸堤防(通称大正土手)が完成したとある。
小作取水堰(写真-4.31)は洪水吐ゲート4門、土砂吐ゲート1門、魚道2箇所、長さ193mで、昭和45年(1970)に完成した。
多摩川橋(写真-4.32)には、大正9年(1920)までは友田の渡し、大正9年(1920)~昭和14年(1939)吊り橋、昭和14(1939)~62年(1987)コンクリート橋という歴史を絵入りで示したプレートがある。直上流に人道にもなっている友田水管橋(写真-4.33)がある。
調布橋(写真-4.34)の右岸たもとに岩浪光二郎の像が建っている。橋にもその歴史を記したプレートがあり、それによると初代は大正11年(1922)幅9尺(2.7m)の吊橋、二代目は昭和10年(1935)ブレストリブアーチ橋(幅8m)、三代目は平成5年(1993)鋼ローゼ橋(幅16m)と変遷している、また左岸たもとには「雪おんな縁の地」の記念碑とラフカディオハーンの写真(写真-4.35)とともに、「怪談」の序文が示されている。「この雪おんなという奇妙な物語は武蔵の国西多摩郡調布村のある百姓がその土地に伝わる古い言い伝えとして私に語ってくれたものである L.H. 1904.1.20 日本 東京」とある。青梅が舞台であるとする根拠である。しかし八雲の日本語理解力は十分ではなかったらしく、八雲家で働いていた娘と父親(西多摩郡調布村現在の青梅市の出身)が八雲の妻せつに村に伝わる雪女伝承を話したらしい。
釜の淵とは、多摩川が急崖にぶつかり大きく流れを変えて丸く深い淵を形成している所で、現在より水量が多かった頃に名が付いたそうである。明治11年(1878)の地誌にこの地名が使われているらしい。若鮎の像説明によると、大正2年(1913)東京帝大の石川千代松博士が琵琶湖から数百匹の小鮎を移殖し成功させたことの功績を称えるものである。釜の淵公園は左右両岸にまたがっており、鮎美橋と柳淵リュウエン橋(写真-4.36)という人道橋がある。鮎美橋を右岸に渡る。公園内には青梅市郷土博物館、旧宮崎家住宅やキャンプ場があり遊歩道も整備されている。青梅市第二代市長の榎戸米吉像や 自由民権運動と多摩の老政客岩浪光二郎(前述調布橋脇の肖像)を敬慕したことをたたえて昭和36年(1960)に建てられた板垣退助像がある。また青梅という地名の由来について、実が熟することなく青々としたままの梅の木があり人々がその奇異をめでたことが土地の名の起こりとのことである。
ここからは右岸一般道を行き、吉野街道と川に近い脇道を進む。
万年橋(写真-4.37)には橋の歴史などの説明が左右岸ともにある。近代の歴史は明治31年(1898)に木造アーチ橋、平成17年(2005)にコンクリートアーチ橋とあり、旧アーチ橋の支承の実物が展示されている。
奥多摩橋(写真-4.38)の右岸たもとに、土木学会推奨土木遺産認証のプレートがある。それには「吉野村と三田村を結ぶ竹の下の渡しに、大正9年(1920)陳情、昭和2年(1927)架橋認可を経て昭和14年(1939)完成。水面から高さ33m、橋長176mのブレースドリブアーチ橋で側径間は都内では珍しい魚腹トラス。戦前の道路用アーチ橋としては最大スパン108mでありアーチライズの大きな橋梁であることから、平成21年(2009)に近代土木遺産の中から選定。」とある。
このコースの終点軍畑イクサバタ大橋(写真-4.39)は、赤や緑など原色の橋が多い中で、珍しい鉄錆色である。
ここからJR青梅線軍畑駅はすぐであるが、長い登り急坂である。