多摩川編③貝殻坂・拝島水道橋コース
京王電鉄京王線・中河原駅から関戸橋に出る。このコースは左岸を約16.6km遡るもので、ルートを図-4.4に示す。2.5万分の1地形図は武蔵府中・立川・拝島である。府中サイクリングロードで、堤防上の舗装道路が続く。府中多摩川かぜのみちと称されている。
四谷橋を過ぎると四谷の五本松(写真-4.19)がある。ただし堤防上に大きな松は1本のみであと小さな松の木が数本あるだけである。「五本松の由来」の説明がありそれによると、江戸時代から明治・大正にかけて水防林として植林されたもので「下堰の松」とも呼ばれるが、数が減ってこの本数になったものだそうである。
石田大橋の手前に四谷(下)水位観測所があり、河口から37.36km,AP55.00mと記されている。橋の下流河床には大規模な床止め工がある。
中央自動車道・多摩川橋の上流で堤防が消滅し、貝殻坂のわずかな区間であるが一般道となる。その途中に伊藤単朴の墓がある。江戸時代中期の談義作者ということである。
江戸時代の甲州街道が多摩川を渡る渡しは何度か場所を変えており、そのつど街道の位置も変わった。1648年から1684年には貝殻坂の下にあった万願寺の渡しであった。対岸にも万願寺渡船場跡の案内がある。坂を下ると根川貝殻坂橋(写真-4.20)である。
再び堤防が復活しサイクリングロードとなる。国交省が指定している「スーパー堤防整備区域」は、日野橋から下流河口までとしている。
多摩都市モノレール橋梁(写真-4.21)は立日橋の上り線・下り線の間に橋脚が立っている。立日橋の名の由来は立川・日野であろうか。
残堀川は多摩川が立川段丘をつくったときの名残である、との説明がある。残堀遊歩橋の上流に珍しいアーチ型の水管橋がある。船が航行するわけでもなさそうだしなぜ直線にしなかったのかわからない。
再び舗装されたサイクリングロードとなり日本経済新聞社立川別館脇を通り過ぎて15分程歩いて野水堀排水樋管の辺りになると、それまで流路が遠くて見えなかった川が左岸に近付き、土丹((新第三系砂岩・泥岩)の露頭(写真4.22)が河床に見えてくる。ここに川の流れによってできた何筋もの侵食溝(写真4.23)やポットホール(写真4.24)がある。堤防上からも見えるが、河床に下って近くで観察することも可能である。しかしこの貴重な自然遺産に対して何の説明もなく、保全措置もとられていない。
築地(ついじ)の渡し跡は、明治初年から昭和16年頃まで渡し舟一艘が築地村(昭島市)と対岸の粟ノ須村(八王子市)とをつないでいたもので、冬の渇水期には川瀬に仮橋を架けていた場所とのことである。1866年の武州一揆の時、この渡し場で一揆鎮圧の戦があったという惨劇の舞台でもある。
終戦から9日目の昭和20年(1945)8月24日の朝、八高線小宮・拝島間の多摩川鉄橋上で上りと下りの旅客列車が正面衝突し、乗客105名が衝撃や濁流に流されるなどで死亡するという大惨事が発生した。豪雨の中の事故で、犠牲者の多くは復員軍人や疎開先からの帰還者であったらしい。鉄橋付近から発見された2対の車輪(写真-4.25)が置かれている。なお余談であるがこの八高線橋梁付近の地層からアキシマクジラの化石が、昭和36年(1961)発見されている。160万年前の旧石器時代の化石とのことである。
平の渡し跡は、1590年落城した八王子城を視察した徳川家康がここを渡って川越方面に向かったとされる記録があるとのことである。
日野用水堰は河口から45.2kmの地点にあり、昭和37年(1962)農業用水堰として完成した。右岸からは河川敷の植物にさえぎられて見えにくい。
多摩川横断水道橋(写真-4.26)が正式名称であるが、一般には拝島水道橋と呼ばれる。赤い十連のアーチが美しい。下路鋼ランガー桁構造で橋の長さは707.2m、φ1100mmの送水管がある。昭和45年(1970)竣工である。
昭和用水堰(写真-4.27)は室町時代に開削された九ケ村用水(立川堀)が前身と言われ、現在の位置には昭和8年(1933)に設置された。昭和村が名前の由来である。昭和30年(1955)にコンクリート製に改修されている。
睦橋の先のJR五日市線橋梁をこのコースの終点とし、JR五日市線・熊川駅に行く。熊川駅の近くに玉川上水が流れている。